自分の時間を過ごす

休日のよしなしごとを書く。
朝から澄んだ青空が眩しく昼から気温が上昇した。ぽかぽか陽気に春を感じる。
テレビ台や本棚上に被った埃を拭いて、花屋で見つけたミモザの花を飾り (こんな素敵な花で400円) ベランダに出るとくしゃみが止まらない。やらなくちゃいけないことがあるが、花粉の日は家と図書館で過ごすに限る。
雑誌の一節が目にとまり手元のノートに書き留めた。アインシュタインの「Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world.」を想起する。

想像する、その行為自体も楽しいけれど、想像するためにまず、知ろうとすることがいい。「想像」と「知識」は表裏一体なのだと思う。
たくさん知り、たくさん想像することで、更に知りたくなる。更に知ると、想像はもっと広がる。それを繰り返すうち、自分とは違う考えも、違う立場にいる人のことも、少し理解できるかもしれない。遠くの声に耳を傾け、遠くの出来事に目を凝らす。


翌日は、昨日と一転して雲の低い雨空となった。春先は花粉に加えて気温のアップダウンが激しく天候の揺れ戻しが何度も訪れる。凪いだ地に着くには、険しい難所を経験する必要があるのだ。まるで人生のようだなぁ、そんなことをぼわぼわと考える。

すごい勢いで流れていくたくさんの情報や人々の思いはどれも強く輝いて見える。のんびりで取捨選択が追いつかず、いちいち感化されては自分を変えたくなったり手当たり次第に新しい本を読む。そんなことを幾度となく繰り返して、ついにはくたくたに疲れ、ふと思うのだ。私の時間は?
もっと余白を、もっとぼやぼやしたり一つの言葉の意味を味わったり一冊の本や身近なひとたちとのお喋りに時間をかけるのが好みじゃなかったか。

自分にとって、植物に水をやるのと好きな言葉を反芻するのは似ている。苔庭にいる何種もの苔たちや熟練のパティシエが作るケーキを眺めていると組織やシステムをイメージする。著者や物語の登場人物や目の前のひとが大切にしている世界の一片を理解できたような気がすると、海の底で宝物を見つけたぞおみたいな気分になる。
「Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts. 自分自身の目で見て、自分自身の心で感じる人は、とても少ない」これもアインシュタインの言葉だ。こんなひとときが好きなのだった。

目先のことを考えて時間を過ごしてきたように思う。間違いをせずまともに(間違えるしちっともまともじゃないが)効率的で合理的でなければいけない。苦手なのに、できないのに、そんなことばかりを意識してきた。だけれども、そういった価値観だけで生きるのはしんどいと思うことが増えた。もっと遠くからの視点を持ちたい。

自分の時間を過ごしているように思えるひとは、いつもずっと遠くの方を見ているせいか穏やかで静かに見える。知らなかったことが知れたり、できなかったことができたり、思いもよらなかった越境ができたり、ひとつの体験や経験から得られる学び気づきや喜びに満ちている。

たまに道に迷いながら自分の地図を作っていく冒険者のように思える。