「喜嶋先生の静かな世界」

「喜嶋先生の静かな世界」を再読した。この物語を読むと、深呼吸をしたくなる。

森博嗣著書の中でもお気に入りの作品で、何度も読み返している。次回読み返す時のために今回の読書ログを残しておきたい。ネタバレを含むので詳細を知りたくない方は引き返していただけると幸いです。

喜嶋先生の静かな世界 (100周年書き下ろし)

喜嶋先生の静かな世界 (100周年書き下ろし)

  • 作者:森 博嗣
  • 発売日: 2010/10/26
  • メディア: 単行本

主人公 橋場くんがゼミで研究をスタートしてから大学の研究者になるまでの約15年間を描いたお話で、私は主人公を自分や業務に置き換えて読むことが多い。学生時代の生活模様、研究に没頭する日々、日常生活、近しい他者との関わり、キャリア... 未来と過去を行き来しながら橋場くんの時間が流れていく。研究の楽しさを知り没頭する隣にいつも同研究室の助手 喜嶋先生がいる。研究とはなにか?研究者とはどういうものなのか?研究者として生きるとは?それを思うとき、橋場くんはいつも「喜嶋先生だったら」と逡巡するのだ。

橋場くんと喜嶋先生、そしてごくせまい人間関係が静かに淡々と綴られており、読者である私たちの隣で彼らのお喋りを聞いているかのような錯覚をする。彼らの紡ぐ言葉は飾らなく自然体で親しみやすくほっとするし、思考は硬派で静か。表現の透明度が高くてときめく。こういう人たちが身近にいたら好きになる。

さて橋場くんが一目置く存在、喜嶋先生とはどんな人物か。朴訥としていて言葉も格好もまるで飾り気がない。大学内でのポジションやステイタスといったものには全く関心がない。率直すぎて突拍子がなく研究室や周りのみんなを驚かすことが度々だ。橋場くんが学部〜大学院時代は、喜嶋先生に質問すれば即返答や助言がもらえるという師弟関係であるが、橋場くんの成長に伴い徐々に2人の距離は近づいていく。その様が実によい。時に喜嶋先生から質問や議論を投げかけ、2人がまるで同志や友人のように部屋でお酒を飲み交わすシーンには胸が熱くなる。
ただその幸せはひとときで、橋場くんが研究者として独立するに連れて少しずつ2人の距離は遠くなっていく。
喜嶋先生が橋場くんの結婚式祝辞で弾塑性論や流体力学や研究展望を延々と語り、司会者に止められて「そうか、べつに、明日直接話せば良いのか」と研究談義を打ち切るシーンは読後に振り返るととても悲しい。
わたしたちは約束しないと会えなくなってはじめて、約束しなくても会えることのありがたさを知るのだ。

喜嶋先生の在り方は主人公にとって「王道」だった。喜嶋先生の隣で王道を歩んでいた自分が、喜嶋先生と距離ができ、時間に追われ、没頭したいことに向き合えなくなり、大切な存在と会えなくなって、やっと王道から逸れている自身に気づく。主人公の憧憬とも後悔とも受け取れる感情が終盤の数頁に凝縮されている。読む度に、もう一人の自分に、いまお前はどうなのだ?と迫られている気がしてギュッとなる。

お気に入りの節を以下に記す。

とても不思議なことに、高く登るほど、他の峰が見えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く見通しが利くようになる。
この見通しこそが、人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。
だから、なにか一つの専門分野を極めつつある人は、自分とは違う分野についても、かなり的確な質問ができるし、有益なアドバイスもできる。僕はまだよくわからないけれど、大学の先生という職業が成り立っているのは、こういう原理だと思える。
(略)
人生には、いろいろな山があるけれど、山を乗り越える技術を身に着けることで、同じ高さの山であればどんどん簡単に乗り越えられるようになる。でも、もっと高い山がつぎつぎに現れて、今度ばかりは駄目なんじゃないか、と心配になるときもある。だけど、どうなんだろう。
それを登らずに引き返すことなんてできるのだろうか?遠回りをして迂回することはできるかもしれないけれど、結局トータルすれば同じ労力が必要なのかもしれないし、もしかしたら、遠回りすることで余計にエネルギィを使ったうえ、高いところを見られないことになるかもしれない。たぶん、生きているかぎりは、乗り越えて行かなくてはいけないものなのだ、という気はする。というよりも、そもそもその山は、自分が作っているんじゃないかな、とも思うのだ。
pp.290-291

たまに意識してゆっくりと歩く。右足と左足を交互に出すのだ。それから深呼吸をよくした。呼吸を意識すると、気持ちが落ちつく。考えるために、コンスタントに体調を維持したい。食事はなるべく減らして、空腹に近い状態がベストだった。
(中略)
喜嶋先生ほど、クリーンでサイレントに生きている人を僕は知らない。探せば沢山いるはずだけれど、きっと、透明で無音ゆえに、見つからないのだろう。先生だけは、たまたま僕がすぐ近くにいたから、存在を知ることができたのだ。
pp.314-315

橋場くんのような空気を纏うひとがたまにいるなと感じた。
人の話に興味深く耳を傾けて、どの人にも変わらない態度で、楽しそうに自分の話をする。
自分のありのままの姿を受け容れ、それを肯定することから始め、大きく見せることやひがんだりすねたりすることがない。「不完全でも、他人より劣っていても、それはそれでいいではないか」という雰囲気があり、それは他者に対しても同じだ。完璧であること、首尾一貫していること、他よりも優れていることを自分にも相手にも要求しない。年齢とか立場とか格好がどうとかのわかりやすい基準を超えている。そういうひとの周りは知的で安らげる空気が漂っている。

今日3/5は啓蟄の日。冬眠していた生き物が眠りから覚めて活動し始める頃だ。
呼吸を深くして毎日を過ごそう。