伝えること、受け取る姿勢
1週間ちょっとはやい母の日をしてきました。
ティーポットをうっかり割ってしまったのと母から聞いたので、じゃあプレゼントさせてと申し出た。贈ったポットでアールグレイを淹れてひとしきりおしゃべり。穏やかな日差しが入る居間で両親とお茶をしていたら自分の幼少期の話題になった。
伝えてくれたこと
シャイで引っ込み思案だったこと。3月生まれなこともあり小学校にあがるまで手先が不器用だったこと。お箸や鉛筆の持ち方の練習がたいへんだったこと。練習には小豆や大豆を使ったこと。あーうっすら覚えている。夕飯後、父に特訓されながらよく泣いたこと。自分の意見を言わないこであったこと。幼稚園時の口癖は「お母さんはどっちがいい?」「お父さんはどうする?」で、娘を厳しく育てすぎたためかもしれないと親は考えたらしい(たぶん性格だ)。自分の意見をちゃんと言えるこにしないといけないと両親は相談し、言いたいことがあるなら泣くのをやめて言いなさい、と言い続けた。娘(わたし)の考えを聞き出すまで2時間でも3時間でも待って、それでもやっぱり口下手で、自分の意見を言えないこともあったらしい。途中まで言葉にしてやめてしまうことがしょっちゅうで、時間がかかった。父は「長女だからって我慢させすぎたかな」。母は「お父さんもお母さんもあなたの考えを聞く姿勢がなっていなかったのかもね」と話した。
高学年になり積極性が増し、中学生になって自分の進路を自分で決めて伝えてきた時はそれはうれしかったらしい。そこからはもう自分でなんでも決めてきて、優柔不断は消え、意思を伝えるようになった。高校生になると1人で夜行バスに乗って出かけたし、大学に入ると勝手に決めて一人旅をし始める。変化のきっかけはなんだったんだろう?両親は首を傾げて笑っていた。
それから母はこんなことを伝えてくれた。「反抗期の時も喧嘩をしてもよく話を聞くこで、途中で感情的に誰かを落としにかかるということはまずなかった」「高校に入るといい話相手になりなんでもよく話をした」「大人になってお母さんはあなたを見習おうと思ったよ」。そんな風に感じ取ってくれていたのか。うれしく思った。
受け取ること
自分は今でも説明が下手で論理的な話が苦手だし言いたいことを適切に表現して伝えることができない。それがコンプレックスでもある。なので、自分が言いたかったことをさっと補ってくれたり「うん、わかるよ」と言って受け止めてもらえることがあると、虹を見たときのような気分になる。自分もそうありたい。
受け取り手がちゃんと関心や耳を傾ける気持ちを持っていれば、相手がほんとうに思っている何かは伝わるのだろう。そういった人たちのやさしさにわたしは随分と救われた。
意見をハキハキと言えるひとを羨ましく思うが、そのことだけで評価されるのはよくわからない。もっと言っちゃえばハキハキなんでも言える必要はないと思う。言葉を持っていないひとは従うしかないの?そんなことはない。饒舌じゃなくても、心にじいいぃんと響いたり胸を打たれるシーンは多くある。ひょうひょうとしていて、かつ淡々としている、そういうスタンスだってかっこいい。
文章や言葉のすごいところは、伝える側と受け取る側の相互理解と関係性と感受性によって、双方に無限の広がりや可能性がうまれるところにある。
伝え、受け取る
ここのところ、自分が思ったり考えたことをそのままに伝える、ということについて絶えずぼんやりと考えていた。伝えたいと思うことがなければ、このブログがなかったら、こんなことを考える気も起きなかった。
母と話をしたことで、受け取る側の在り方について思い巡らせる機会をもてた。他者の話をちゃんと素直に受け取れる心持ちに自分を置いておくことは大切。
楽しいことも辛いことも、こんなことがあったのということも、聞いたり読んでくれるだれかがいるといないでは感情の取り扱いも変わってくるだろう。伝える側、受け取る側、どちらの有り様も意識したい。