WSA研#1 縁側トーク ~ 予稿「道をつくる」

テーマ

道をつくる

個と組織のあり方について「道」の概念を使って考える

まえがき

わたしが縁側トークをおこなわせていただくきっかけは、こちらのエントリ Web System Architecture研究会の発足と挨拶 - Web System Architecture 研究会 (WSA研) に感化されたことでした。

もう少し詳しくお話をすると、masayoshiさんの「個人的な発足理由と思い」を読み、そのあとウェブシステムの運用自律化に向けた構想 - 第3回ウェブサイエンス研究会 - ゆううきブログで y_uukiさんが考えるウェブシステムとはどういうものかを読みました。お二人のブログにはこれからの展望や技術に対する思いが丁寧に書かれていて、きっとWSA研参加者のみなさんにもそれぞれ技術アイデアや思いがあるのだろうなぁと想像しました。自分は技術者ではないため力になれることはないとわかっていながらも、なにかできないかな応援したいなという気持ちになりました。理由はわたしがなぜだか基盤技術に関心があること、そして上記のブログエントリや日々のお話から垣間見える志が自分の琴線に触れたからだと思います。その一片を拙文 サーバとわたし - Words fly away, the written letter remains. のむすびに記しています。お時間が許せばご一読ください。
もう一つ、これは余談なのですが、自分の興味関心で読んできた碩学たちの思想や考えを自分なりにまとめてみたいという思いがありました。

そんなわけで、これまでもこのテキストを書きながらも、何度も、上述したエントリを読みました。読むたびに、高校時代に読んだ 湯川秀樹旅人―湯川秀樹自伝 (角川文庫)の一文を思い出します。

未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である

古きを温ねて

Web System Architecture研究会の発足と挨拶 - Web System Architecture 研究会 (WSA研) に記載があるmasayoshiさんの「この技術分野を勉強するにはどうしたらいいのか?学問になっているのか?体系化されていないのか?」といった考えは、現役技術者のみならず、過去に生きた別分野の科学者や研究者の歴史に見つけられるかもしれません。
おそらく彼らも一人でわからなさと向き合い、孤独に研究生活を続けたのでしょう。そうしてなにかのきっかけで同志に出会い、議論から得られる効果や楽しさを知って研究所や研究会といった機関組織を立ち上げたのでしょう。以下に2つの例を挙げます。

1つめは、物理学者ニールス・ボーアコペンハーゲン大学の研究機関として立ち上げた「ニールス・ボーア研究所」。
ボーアの研究スタイルは柔軟かつ自由で大胆で議論を好みました。彼は実験が苦手で実験機材をしょっちゅう壊してしまうことから、思考実験のひとでした。弟子や世界各地から研究者を招き、意見を聞き、彼らと対話しながら理論の再検証をおこなっていました。古典物理学にとらわれず、事実に従って観測した結果はたとえ説明しがたくとも事実として受け入れようとする姿勢でした。ボーアが考える量子力学は、物質や自然はただ一つの状態にとどまらない、確定できないことこそが自然のあり方であるというものでした(のちに量子論の考え方で異論を唱えるアインシュタインと大論争に)。 彼の柔軟でのびのびとした研究スタイルは、研究所のあり方にも反映されました。弟子に伝えた言葉『私が述べるすべての文章は、断定ではなく質問と理解されるべきである』からもボーアの研究に対する姿勢と弟子との関係性が伺えます。今でもニールス・ボーア研究所は諸外国から多くの若手研究者を招いて自由な議論を尊重しています。
ボーアは 77歳で亡くなるまで論文を書き続けたひとでもありました。残した文章は論文のみ、口承による記録でしか彼の思想や考えについて知ることができません。後世に生きるわたしたちにとっては少し残念ですが、それがボーアの生き方でした。

2つめは、湯川博士京都大学基礎理論物理研究所の初代所長となり発足した「混沌会」です。
無口で内向的で目つきの悪い劣等感の人間だと自己分析する湯川博士は、基礎物理学を語ることができる議論や発表の場を限定して積極的に参加していました。ダジャレ好きであった湯川先生のエピソードを門下生の記録で読めます。プリンストン高等研究所ではアインシュタインや哲学者 バートランド・ラッセル等と議論を交わし文通し、毎年海外に出向いて(イヤイヤだったようだ)世界中の科学者と交流しました。
基礎物理学研究所では、初代所長ということもあって「基礎物理学とは何か」「基研は何をするところか」を常に考えていたようです。基調講演で基礎物理学の定義について発表をしたり、また素粒子の定義について「1953年ごろから何を基礎として理論体系をつくればいいかわからなくなっている」と苦悩を漏らしていることは印象深いところです。混沌会では研究所の有志を集め、定義についての議論やメンバーの研究進捗などについて意見交換をしていました。基礎物理学研究所所長としての湯川博士の様子も書籍や門下生の記録で読むことができます。
5, 6歳の頃から四書に親しみ、基礎物理学の研究をしながら論文をはじめ新聞や専門誌にたくさんの文章を残して、晩年には生物学に関心を抱き、ロンドン・タイムズを長く購読するひとでした。1966年のノーベル平和賞候補者に推薦されていたことも判明しています。湯川博士について巡らせると、寺田寅彦の一文『「心の窓」はいつでもできるだけ数をたくさんに、できるだけ広くあけておきたいものだ』を体現したひとだなと感じます。

ニールス・ボーア湯川博士ともに新しい発想とひととの関係性を大切に考えていました。ニールス・ボーア研究所、混沌会のどちらも、未来の物理学の発展のために自由な研究と意見交換の場が必要であると考えて設立された点で共通しています。
科学者が立ち上げた機関ではありませんが、1930年に私財で設立されたプリンストン高等研究所にも似た雰囲気を感じます。

新しきを知る

WSA研発足にあたって、上述のような組織になるといいなぁと勝手ながらに妄想していました。自分の知見や経験が、もしかしたら今後のWSA研コミュニティ運営のお役に立てるかもしれないと考えました。それは人事としての業務経験に加えて、自分が読み聞きした科学者や哲学者の研究姿勢や思想/生き方に関する内容です。科学者の研究姿勢や思想を読み解いていくと、老荘思想にある「道」の考えと通ずる気がして、最近とくに興味深く感じています。科学者たちが歩んだ道はわたしたちが自分のスタイルをつくる際のエッセンスになりそうな気がしています。

老荘思想でいう「道」とは、老子の解説本や東洋哲学者の言説を読むと『そのもののあり方(=being) 』『道理』と解釈するのが自然だとされています。論語「里仁第四」にこのような一文があります。

  • 子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり
    • 朝にどう生きるかを悟ることができれば、夕方に死んだとしても後悔はない、という意
    • 自分の道を追求することの大切さを示した言葉。自分の生き方を見つけることはそんなに簡単ではないよ、という意味を含んでいる

学者の思想と哲学の両軸で見ていくと湯川博士は東洋哲学に随分と影響を受けていたことがわかります。『一日生きることは、一歩進むことでありたい』という言葉も「道」を想起する一文です。

アインシュタインに関して言えば、実に自分だけの道を貫いたひとであったと想像します。
アインシュタイン は物理学の研究と同じように芸術を愛しモーツアルトの音楽を愛し、国際平和に強い関心を持っていました。相対性理論の研究に突入した後も近所の子供に勉強を教えることをやめませんでした。こんな言葉を残しています。If you can't explain it to a six years old, you don't understand it yourself.
普段のアインシュタインは、一人の問いの時間を大切にしていました。プリンストン高等研究所時代は、研究所に出向くのは午前中だけで午後は自宅に戻っていました。自宅に時おり科学者を招いてはいたものの、アインシュタインはあまりにも未来を見通していたために他者に理解されず孤独であった、と湯川著書に記されています。

新しい価値を見出したり自分の技術スタイルを確立していくうえで、「道」の考え方をちょこっと知るだけでも、これからのWSA研やみなさんの一助になってくれるのではないか?そんなことを考えています。

現代の情報社会の中ではとても難しいことですが、自分がどのようにあるか/なにをするかの決定権を他者にゆずらない、ということだと思います。

むすび

第1回WSA研には全国から10名を超えるみなさんにお越しいただけると聞いています。参加者は原稿の事前提出とウェブシステムアーキテクチャという共通プロトコルで語りあう以外の指定はなく、多様なバッググラウンドを持つ方々だと伺いました。みなさんはどんな考えで参加を決めたのでしょうか。なぜWSA研に参加をするのか?お聞かせいただけるとうれしいです。みなさんの考えがこれからのWSA研をつくります。

個と集団の関係性を妄想するとき、物理学者 ファインマン博士の言葉を思い出します。こんな素敵な表現を残しています。

意識を持った原子、好奇心をもった物質

私はひとりで浜辺に立ち、考えはじめる。打ち寄せる波がある。
大量の分子が、それぞれ勝手にふるまい、たがいに遠く離れていながら、一緒に白い波をつくっている。それを見る眼が現れるはるか前から、来る年も来る年も、いまと変わらず雷鳴のようにとどろきながら岸辺に打ち寄せていた。
それを楽しむ生命がまったく存在しない死の惑星で、だれのために、何のために。けっして休まず、エネルギーによってねじまげられ、太陽によってひどく目減りさせられながら、空間に流れ込み、その力が海に轟音をたてさせる。深い海の中では、あらゆる分子がたがいのパターンを反復し、やがて新しく複雑なものが形成される。それらは、みずからと似たものをつくり、新しいダンスがはじまる。

大きさと複雑さを増しながら、生きているものが、原子のかたまりが、DNAが、たんぱく質が、さらに複雑なパターンを踊る。
そのゆりかごから出て乾いた陸にあがり、いまここにたっている意識を持った原子、好奇心をもった物質は、あれこれと思いをめぐらすことの不思議さを思いながら海に向かって立つこの私は、原子の宇宙、宇宙のなかの原子なのだ。

Richard Phillips Feynman

「脳のなかの幽霊、ふたたび」より  V.S. ラマチャンドラン

この一節を読んでわたしは人体をイメージしました。
同じ細胞がたくさん集まっても人間にならなかっただろうな。独自の個性と特性を持つ細胞があり、細胞と細胞の役割と関係性がいろんなパターンや秩序を成して、人体を作り出しているのだろうな。じゃあ組織も工学システムも、おそらくはウェブシステムも同じなのだろうな。

一人ではできないことも、多彩な専門性を保つ個が集まって組織になり、それぞれの強みを活かすことで得られ生まれる価値は計り知れません。ならば WSA研の個とは?コミュニティとしてのあり方は?構成員としての個はどうあるとよいのか?
WSA研が構成員にとって実りのあるコミュニティであるために決定的に必要な要素は、個のあり方と関係性と言えるのかもしれません。

なにかしらかの思いを持つ個が集まり、WSA研として組織できたことは、まだ名前がないこの分野にとって新しい価値を生み出す大きな一歩だと思います。同時に参加者みなさんにとってはそれ以上の気づきや成果がもたらされると信じています。
そうなるために必要な個と組織のあり方について「道」の概念を使ってみなさんと考えてみたいと思います。

Web System Architecture 研究会との関わり

  • WSA研発足の場 17年10月開催ペパボ・はてな技術大会#3に運営メンバとして参加
  • WSA研発足の目的や思いを同僚ゆううきさんやまさよしさんから聞いて、自分の思いをぶつぶつしゃべっていたら研究会の場でお話しませんか? と声をかけていただきました

参考書籍

  1. 旅人―湯川秀樹自伝 (角川文庫) 文庫 – 1960/1
  2. 本の中の世界 (岩波新書) 新書 – 1963/7/1
  3. 目に見えないもの (講談社学術文庫) 文庫 – 1976/12/8
  4. 現代物理学の父ニールス・ボーア―開かれた研究所から開かれた世界へ (中公新書) 新書 – 1993/6
    • なお、ボーアは北欧理論物理学研究所の設立(1957年) にも関わる
  5. プリンストン高等研究所物語 単行本 – 2004/11/1
  6. 量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫) 文庫 – 2017/1/28
  7. 老子 (岩波文庫) 文庫 – 2008/12/16
  8. 論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典) 文庫 – 2004/10/23
  9. 評伝 アインシュタイン (岩波現代文庫) 文庫 – 2005/9/16
  10. Bite-Size Einstein: Quotations on Just About Everything from the Greatest Mind of the Twentieth Century – 2003/4/1
  11. 安冨歩「道とは何か」- 東京大学東洋文化研究所教授
  12. 脳のなかの幽霊 (角川文庫) 文庫 – 2011/3/25
  13. 脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ 単行本 – 2005/7/30

文章と私淑

2016年7月に死去された青空書房店主 坂本健一 さんはインタビュアーに「どうして長らく古本屋のオーナーをしているんですか」と訊かれてこう答えたという。

本はいいですよ。まず、本と出会える。本が好きな人と会える。本が好きな人に本を薦めることができる。
人と人が本を通して出会うことができる。

本を通して人と人が関わり合うとはどういうことか。
坂本さんの言葉にある「本」に、インターネット上のブログやインタビュー記事、勉強会のスライドなど、人の考えや思いや経験の足跡が記された「文章」を含めてよいかもしれない。

文章が作り上げる空間には、そこに書き込まれた内容そのものに加えて、言葉を取り巻く人と人との交流がある。著者と読者、登場人物と読者、読者同士の出会いの場所でもある。そしてそれらを通して自分自身と向き合う場。よい文章や言葉と出会うことは自分を知ることだ。

よい文章との出会いは私淑をもたらしてくれる。わたしたちは書籍やインターネットの恩恵にあずかり、5年、10年、100年、1000年もっと前に生きた人たちの行動や思想を知ることができる。空間を飛び越え、遠く離れた場所に居るひとの考えや見識を知ることができる。それらの大いなる足跡は、時間や距離による風化作用に耐えて、わたしの生き方や考え方に影響を及ぼしてくれる。

さて、今週はノーベル物理学者 湯川秀樹著書 本の中の世界 (岩波新書)を読んでいた。著者が紹介する科学者とのエピソードや本の存在を知り、その人となりや世界を知り、文章を通して湯川博士のものの見方を感じて静かな気持ちになれた。
湯川博士プリンストン高等研究所滞在中に出会ったという哲学者バートランド・ラッセル著書「ラッセル放談録」への言及は興味深い。以下の一文は、 本の中の世界 (岩波新書)バートランド・ラッセルとの議論を経ての感想である。

科学と哲学は連続的につながっており、その間にはっきりした一線が引けないし、境界線をつくりたくないのである p.130

科学と哲学に限らず、文学や仕事または人生も同じだと思える。境界線をつくりたくない、という一文が触れた。
科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)評伝 アインシュタイン (岩波現代文庫) にある考え方と共通していて腑落ちできる。

最後に文章を分類した中のひとつ「物語」について書いておわりにしたい。物語はストーリーという言葉に置換可能。
これまでとくに考えず「物語」という言葉を使っていたが、物語の哲学 (岩波現代文庫) を読んで「人間は物語る動物」なのだと知った。文字、口承いずれも含む。
書籍によると、物語とは「出来事、コンテクスト、時系列」この3要件にしたがい、知覚経験を言語行為することを指す。それは事実のみならず虚構の領域にも及ぶ。
物を見たり音を聴いたり知った事柄について、我々の記憶はなんらかの興味関心に基づいて取捨選択をおこなう。そのあと、一定のコンテクストの中に再配置したり時系列に従って再配列する。このような過程を経てやっと、私たちはその世界や歴史について語り始めることができるのだ。
どうしてひとは物語るのだろう?
知覚体験を解釈的に捉え、語り、人は多様で複雑な経験を整序しながらその抽象的かつ混沌とした世界を理解しようとする。また、過去の経験、悲しみや喜びといった直接的体験を出来事として物語ることで、現実に対する理解を深めることができるようになるという効用にも触れていた。事実の真理を物語ることができる者は、現実との和解ができるのだという。

わたしが物語を好む理由は、事実に対する客観的解釈とその背景にある人の思いを時間軸で知れることにある。物語の、エントリ内容の、それから?が聞きたい。

私たちは文章を通して人や知らない世界を知り、あちこちを旅することができる。

時間を超えてよいもの、ものの見方

時間を超えてよいものとはなんだろうなぁと巡らせた時に、京都は東山の南禅寺界隈別荘群を紹介したドキュメンタリー番組を思い出す。具体的には、番組に登場した庭師の言葉が記憶に残っている。ずいぶん前の番組で自分の記憶が頼りであるため、内容に齟齬があればご容赦ください。

かつて貴族や華族・財閥により建てられた別荘のいくつかは、そのあと何度もオーナーが変わり、今では海外の財閥企業や富豪の所有下にあるそうだ。美しい邸宅やお庭は人の目に触れず閉じられていて、業者による掃除と季節ごとに庭師が手入れをするだけという現状に嘆く声が寄せられているのだった。そんな状況について番組は庭師さんにマイクを向けた。返事はこうだった。

「一流の価値とこの別荘の美しさがわかる人に受け継ぎたい。オーナーさんの国籍なんかはまったく関係ありません」続けて「わたしは今植えたもみじの苗木が50年後立派に育つように日々大切に育てています」「気温や季節ごとに異なる陽の差し方や葉の具合をみて枝を剪定したり、京都のこの土にちゃんと根付いてすくすくと育つよい木と花を選ぶために全国いろんな土地に出向いています。この庭はそうやって作っています。100年先もそうでしょう」
庭のあちこちを歩き回り、作業着に軍手をつけたままそうお話された。庭師さんの思いがこの庭に悠久の時を作り出しているのだった。事に向かうとはこういうことなのだなと思った。要は作り手の哲学なのだ。

常に最新であることに価値があると一概に言えなくなってきた。価値やものが「流行」というワードに乗っかって速いスピードで消費されていくことに対して、ちょっとした抵抗や違和感を感じることが増えてきた。ものの起源や作り手の思想を知り、それを身近に置けばどれくらい長く使うことができるかを考える。作り手の思想に対して賛同できるかは大切な軸だ。もののプライマリメトリックはなに?それは自分にフィットしているの?そんな風にあれこれと吟味し納得ができると実に満足度が高い。ずっと手元に置いていたくなる。

50年、100年先を見据えて庭を設計しメンテナンスをされる庭師さんのものの見方とはどんな風なのだろうか。

長い時間かけて愛着を持ちながら育てたり使うことを前提に、ものの本質を学び、普遍的な価値や魅力を考えたい。作り手の思想や展望が感じ取れる「時間を超えてなおよいもの」を選択したい。そのための審美眼を養い、不要なものは排除する。
時間を超えてよいものは今じゃなくもうすこし先の未来を見通して考え選ばれ作られている。作り手の思いや考えを感じて、わたしは経年変化に美しさや愛着を抱く。

「完全なる証明」

完全なる証明

完全なる証明

数学界における7つの難問のうちの1つポアンカレ予想を証明したグレゴリー・ペレルマンを描いたノンフィクション作品です。彼が数学の英才教育を受けながら育った旧ソ連での境遇や環境に加え、社会情勢や教育事情が丁寧に紹介されています。読み応え十分。

自分がこの本を手に取った理由は2つありました。
1つは数学界の超難問とされたポアンカレ予想を証明したグレゴリー・ペレルマンという人物に対する興味。もう1つは、年齢制限があり受賞が難しいとされるフィールズ賞と100万ドルの賞金をなぜ辞退したのかという疑問です。

グレゴリー・ペレルマン

英才教育を受け、科学や数学の分野で類稀なる才能を発揮するペレルマンは、16歳で数学オリンピックに出場し(当時最年少記録)満点で個人金メダルを受賞するなど、旧ソ連国内では大注目の存在でした。ただし当時の国内情勢は危うく、旧ソ連崩壊の影響もあって、ペレルマンは大学進学を機に米国に渡ります。それでもすぐに物理学のアプローチで数学の証明をおこなうなど斬新奇抜な証明スタイルで注目を集めます。しかしその頃から、世間の情報を遮断し、人と関わることを避けはじめるのでした。
深くひたすらに自分の世界に潜りたい彼にとって、賑やかすぎるアメリカ社会は生きづらかったのかもしれない。はじめのころは自身の証明や成果をアピールする彼でしたが、世間に知られ注目されるほど自分が自分でなくなるような感覚を覚えたのかもしれない。研究生活や学会発表の様子を通して、ペレルマンの人となりが伺い知れるシーンの紹介がいくつかあります。頁を進めるうち、今なお人と関わりを絶って生活するペレルマンにとって、この書籍自体が「放っておいてほしい」と思わせる存在な気がしてすこし申し訳ない気持ちがしました。

フィールズ賞を辞退

本書後半では、ポアンカレ予想の証明を解いた後について描かれます。行き過ぎた取材合戦や裏金などに対する幻滅、ペレルマンの周辺で起こった矛盾を生むだけの拗れた人間行動を細かに紹介しています。彼の世界すべてである数学と向き合う静かな時間と環境。それを「ビジネス化した数学界/ICM委員会」により破壊される一連の描写が緻密で秀逸です。
「人は委員会と対話するんじゃない。人は人と対話するんだ」
そう言って、ICM委員会にポアンカレ予想の証明について講演することをせずフィールズ賞をも辞退し、また2010年にクレイ数学研究所が決めたミレニアム賞も同じく辞退しています。

ペレルマンが求めていたのは目次にあるとおり「説明させ、それに耳を傾けること」だったのでしょう。委員会や世間に囃し立てられるのではなく、情熱を傾けて獲得した自分の新しい数学の世界がちゃんと「人」に理解される。そんな実感がほしかったのかもしれない。

フィールズ賞辞退後、ロシアの小さな街で母とひっそり暮らす彼のもとを訪れたジャーナリストに対し、ペレルマンはこう伝えたと記されています。

  • 「ちょうど友達がほしいと思っていたところでした。それは数学者である必要はありません」

ペレルマンを表現したことばにはこみあげてくるものがあります。

あまりにも才能に恵まれ、あまりにも孤独 (第12章)


著者マーシャ・ガッセンが描くペレルマンは魅力的で、青木薫さんの翻訳も相変わらずすばらしい。読めてよかったと思える1冊でした。
この本を読み終えて「フェルマーの最終定理」最後に記されたアンドリュー・ワイルズの言葉が頭を過りました。その一節を書き留めてこのエントリはおわりにします。

大人になってからも子供のときからの夢を追い続けることができたのは、非常に恵まれていたと思います。これがめったにない幸運だということはわかっています。しかし人は誰しも、自分にとって大きな何かに本気で取り組むことができれば、想像を絶する収穫を手にすることができるのではないでしょうか。この問題を解いてしまったことで喪失感はありますが、それと同時に大きな開放感を味わってもいるのです。
八年間というもの、私の頭はこの問題のことでいっぱいでした。文字通り朝から晩まで、このことばかり考えていましたから。八年というのは、一つのことを考えるには長い時間です。しかし、長きにわたった波乱の旅もこれで終わりました。いまは穏やかな気持ちです。
pp.461-462,フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

9/18 (月) Zurich > 成田 > 羽田 > 伊丹

7日目。最終日。

8/18 (月) AM: チューリヒ空港

最終日は空港までタクシーで10分ほどの距離にあるモダンなホテルに宿泊した。アメニティグッズのクオリティが高く朝食も大満足。近所を散歩した時に撮影したホテルの外観が以下です。
10:30に空港到着。

手荷物検査場で

10:00~14:00発の国際線が多いのだろう、出発ロビー/手荷物検査/出国審査カウンター どこも混雑であった。
テロ対策でヨーロッパ各国の手荷物検査は厳しめであることを承知していたが、出国時の手荷物検査でなぜだか金属探知機のチェックに何度も引っかかり、別の場所に呼ばれてベルトや靴やらを脱いで確認を受けた。その際に預けたアクセサリー(長年愛用のネジ留めブレスレット)が失くなってしまうという出来事があった。
チェックが済み、預けた手荷物や時計とピアスを身につけて、ブレスレットがないことに気がついた。尋ねてみると「しらない」と面倒そうに返される。探してほしいと担当職員に訴えたがノーノー時間がないとの返答。探してほしい、あれは大切なものだ、以外に抗議できる言葉がなく悲しかった。そのうち目を合わすこともせずどこかに行ってしまい、別の職員さんがSorry. とだけ伝えに来た。なにが起きたのか今でもわからない。
職員さんの対応が不誠実で悲しかった。怒りより悲しみのほうが先に立つ。命やお金を失うような大事に至らずこの程度で済んでよかったのかもしれない。

自分の国の言葉があることの幸せ

手荷物検査での出来事がありちょっとしょんぼり気味で、搭乗時間までの30~40分間は搭乗ゲートの待合いエリアでぼうっと過ごした。そこで隣り合わせた女性について書きたい。

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9/17 (日) Wengen > Jungfrau > Zurich

6日目。晴れ。この日の予定は事前に決めてあった。ぎっしりだ。

例えば、週末2日とも外出だとか休日の予定が詰めて埋まると息苦しく感じてしまう。「ちょっと寄り道したい」「急にごろごろしたいのだ」とか「もっとゆっくり」を優先したいから、予定がないとかこれから決めようという状態には抵抗を感じない。その観点で、この日は全部盛りだった。がんばろう。

AM : Jungfraujoch とハイキング

ウェンゲンアルプ鉄道でウェンゲン駅からクライネ・シャイデック駅まで移動し、そこからユングフラウ鉄道に乗り換えて標高 3,750mに位置するユングフラウヨッホ駅 スフィンクス展望台を目指す。富士山の頂上と同じ高さに鉄道の駅があるのね?すごいな!そう、ユングフラウ鉄道はどの駅も標高3,000mを超える場所にある。100年も前にひととお金と20年近くの歳月を費やし、この路線を建設したスイスはすごい国だ。終点駅まで40分ほど車中でうとうと。眠気はもしかしたら標高が高くなってきたせいかもしれない。時おりクラァとしたり息がハァハァした。

標高3,500m超に位置するスフィンクス展望台から見るアレッチ氷河

ふぁーなんだここは。FF14かな。しばらくアレッチ氷河を眺めながら、あちら側の世界に引き込まれそうになる感覚を楽しんだ。
氷河とは長い間かけて降り積もった雪が次第に厚くなり氷となり重力によって流動するようになったものをいう。日本で氷河を身近に見ることはなくピンとこないが、この氷塊の流れが何万年も前から年に200mの速さで流れ進んでいたのだ。そして同じ時間の尺度でこれからもずうっと流れてゆく。"Still waters run deep." という英語の諺がありますが、まさにこのことだな。悠久の時を思った。
(Still waters run deep. = 深い川は静かに流れる。分別のある人や思慮深い人は、ゆったりとしていてやたらに騒がない。というたとえ)

↓ ハイキング中に見たアイガー、メンヒ、ユングフラウ。同時に3つの頂上が見えたよ!

青空と美しい景色を見つつ小一時間ほど歩く最中に、メンヒの中ほどで雪崩が起きる様子を2度も見る機会があった。雪崩を見るのも音を聞くのも初めて。落雷にも戦闘機が飛ぶ音にも似た轟音とともに、ものすごい雪の塊が一気に落ちる。あんなのに巻き込まれたらひとたまりもないなあ。雪山に出向く方はくれぐれもお気をつけください。
岩の隙間や地面にぴたーと張り付いて咲く高山植物を見つけながら、クライネ・シャイデック駅までの散歩ハイキングを楽しんだ。散歩はいいなー人生の楽しみ。
駅の近くでコーヒーを買い、来た道を戻った。再び鉄道でZurichを目指す。鉄道充。

PM: Zurich

クライネ・シャイデック駅からチューリヒまで鉄道で約3時間の旅です。
インターラーケン駅からベルンを経由してチューリヒ中央駅まで、特急列車を利用すると約2時間で移動ができる。運賃は70Fほど。車中はほぼ夢の中であった。
17:00 過ぎにチューリヒ中央駅に到着した。中央駅は映画やポスターに出てきそうな重厚で素敵な駅で、各所に吊るされている大きなMondeanの時計がとっても印象的!構内を散歩して時計と鉄道の色合いを眺めるだけで楽しかった。荷物が多くこの時は早起きとハイキングと移動で疲れ切っていて、写真が撮れていないのがざんねん。
大きな荷物はいったんホテルに置いて、旧市街に戻り散歩。この時期のスイスは20:00pmまで空が明るい。治安がよいチューリヒの街は夜の散歩も楽しい。

博物館や塔やアパート、ウィンドウ越しのディスプレイどれもが小粋で、St. Moritsの自然と調和したのんびりな雰囲気とはまた異なっていた。都会だけれど雑然としておらず疲れる感じはない。ローマやパリのような豪華絢爛な華々しさはない。質素だけれど洗練されていて、わたしはこういう街や時間の流れは好きだと思った。
空気が美しいせいなのか、空間が広くとってあるからかな?はたまた石畳だから?統一感があるのだと思う。歩く人、建物の色味、空の色、街全体のベースカラーが柔らかな中間色で落ち着く。

建物や川を見ていたら急に京都の街が恋しくなることがあった。ZurichもSt.Moritzもすごく素敵だけど京都も負けていない。チューリヒの旧市街を歩きながら半分くらい京都のことを考えていた。プロテスタントの国でチューリヒはそれが色濃くでているため、スイスの中でも文化的な街なのだろう。宗教的な文化と時間の積み重ねが格だとか品を携えている感じがする。教会がたくさんあるのも寺社仏閣がたくさんな京都の街に似ている。人がたくさんいすぎないのもよい。

街をゆく人々はゆったりとしていてマチュアだなぁと感じた。時間がひとに降り積もっていて一過性ではない品がある。かっこいい大人になりたい。

余談

9/17, 18の2日間をまとめて旅の最終エントリにしようとしたら、いろんなことを思い出してなぜだか書くのに苦労した。事実と自分のことと過去と未来がごっちゃになる感じ。自分のことなのに何を書いたらいいのかわからなくなってしまった。不思議。旅疲れが出て混乱したのかもしれない。

もともと書いた文章はすべて消して時間をおくことにした。落ち着いて1日ずつ事実をヨチヨチと書き連ねたのがこのエントリである。稚拙でなんてことのない記録なのにけっこうな時間がかかってしまった。
つづく。

9/16 (土) Zermatt > Wengen

5日目。曇り→雨→曇り。この日のミッションは夕方までにWengenのホテルに辿りつくこと。ウェンゲン駅までの所要時間は ツェルマットから鉄道でおおよそ5時間。

8:00am 台の鉄道に乗りたいため7:00に起床してホテルで朝食。マダム3名と同テーブルになった。自分を見てボンジュール〜と挨拶をしてくれたのでフランス人と理解。発音を真似てボンジュール〜と会釈をした。Zermattはイタリアから近いためイタリア語話者が多い。そしてドイツ語、次いでフランス語か。
このマダムたちの食べぶりが気持ちよいったらなかった。 3名それぞれが、クロワッサン2つ、黒パンを2切れ、バターにハム、チーズ、卵、ソーセージやら果物類など、一人で2皿を大盛りにして楽しそうにおしゃべりをしながら完食されていてすごいなあ。もしかしたらフランスは朝食を大切に考え時間をかける食文化なのかも。海外の人々とひとときを共にして「文化の差」を感じ知る機会が何度かあった。例えばマナー。食事の仕方。食事のサーブ..etc.
比べて自分は、パン1枚&ジャムにスクランブルエッグ、ヨーグルトとカフェラテがあればもう十分で、いやいやもっとがんばらないと!> < なぜだか食に対して謎の使命感を背負っている。
部屋に戻り準備をして、ツェルマット駅を9時前発の鉄道に乗車。スイスを走る鉄道の乗り換えおよび時刻表は、スイス連邦鉄道公式サイトで調べることができる。URLは以下。

ひんやりと小雨の降る静かな日であった。 車窓から見る山と流れる街の景色は靄にけぶり、まるで絵だ。連続して鉄道に乗り続けるのはしんどく、この日は時間に余裕があったので Interlaken. ostで途中下車をしトゥーン湖周辺を散歩。駅近くのCOOPで4.8Fのサラダセットを購入して散歩道に設置されているベンチに座って食べた。スイスには至るところにこうしたベンチがあり、老若男女が腰をかけて思い思いの時間を過ごす様子に出会う。読書をする人々、語らう二人組、犬の散歩中に休憩するおばあちゃん、こどもたち。ゆったりとした時間が流れていた。こんな時をしばらく忘れていた気がする。
雨が上がり雲の切れ間が見えたころに湖から始まる大きな虹に遭遇し、旅先で思いがけずよく知る顔に会えたようなうれしい気持ちになった。こういうことがあるから散歩は好き。雨の日に思い切って外に出てよかった。その後はぶらぶらと雑貨店や食料品店をウィンドウショッピングし、結局 Interlakenには2時間近く滞在した。

18:00前にウェンゲン駅に到着。この日のホテルは駅の目の前であった。喜びも束の間、部屋でインターネットが繋がらず難儀することになる。しょっちゅうロビーに出向き、翌日の予定と移動時刻をチェック。地図や時刻の確認に留まらず自分の心細さの解消もインターネットに頼りきりであることに気づく。インターネットがないと旅ができない自分だった。
ほか、つれづれに書き連ねておく。

持っていったが使わなかったもの

  • 3DSドラゴンクエスト11
    • 移動中さびしくなるかもしれないと思い持参したがまったく電源をいれなかった。自分がRPGのキャラみたいなものだ
  • 着替えたくさん
    • インナー類が日数分あればよい。他を持参しすぎて重いばかりだった
    • 読まなかった。車窓からつねに美しい世界が眺められる
    • 地図をずっと見ていた

持っていけばよかったもの

  • 歯ブラシセット
    • 日本のホテルのように常備していません
  • 手袋とマフラー
    • 9月以降に山岳エリアにでかける方は持参するとよい
  • ハンドクリーム、保湿クリーム
    • 乾燥で手がカサカサに。機内だけかとおもたらスイスは乾燥地域であった
  • エコバッグ

持っていってよかったもの

  • 革靴とスニーカー
    • 雨の日には雨の靴を。気分転換にもなりました
  • ワンピースとワンピースに合うポシェット
    • 街歩きの日はちょっと気分を変えたい
    • お財布とパスポートが入るサイズがよい。ハンドバッグはスられないように注意です
  • サングラス
    • 寒くても日差しは強烈

意外なこと

  • 黒髪/直毛
    • 店員さんや出会った人々に何度かほめられた。隣の芝はあおい
  • テトリス
    • 機内のエンターテインメントシステムで遊べた
    • テトリスと睡眠を繰り返して12時間の空の旅をすごしたらずいぶん上達