文章と私淑

2016年7月に死去された青空書房店主 坂本健一 さんはインタビュアーに「どうして長らく古本屋のオーナーをしているんですか」と訊かれてこう答えたという。

本はいいですよ。まず、本と出会える。本が好きな人と会える。本が好きな人に本を薦めることができる。
人と人が本を通して出会うことができる。

本を通して人と人が関わり合うとはどういうことか。
坂本さんの言葉にある「本」に、インターネット上のブログやインタビュー記事、勉強会のスライドなど、人の考えや思いや経験の足跡が記された「文章」を含めてよいかもしれない。

文章が作り上げる空間には、そこに書き込まれた内容そのものに加えて、言葉を取り巻く人と人との交流がある。著者と読者、登場人物と読者、読者同士の出会いの場所でもある。そしてそれらを通して自分自身と向き合う場。よい文章や言葉と出会うことは自分を知ることだ。

よい文章との出会いは私淑をもたらしてくれる。わたしたちは書籍やインターネットの恩恵にあずかり、5年、10年、100年、1000年もっと前に生きた人たちの行動や思想を知ることができる。空間を飛び越え、遠く離れた場所に居るひとの考えや見識を知ることができる。それらの大いなる足跡は、時間や距離による風化作用に耐えて、わたしの生き方や考え方に影響を及ぼしてくれる。

さて、今週はノーベル物理学者 湯川秀樹著書 本の中の世界 (岩波新書)を読んでいた。著者が紹介する科学者とのエピソードや本の存在を知り、その人となりや世界を知り、文章を通して湯川博士のものの見方を感じて静かな気持ちになれた。
湯川博士プリンストン高等研究所滞在中に出会ったという哲学者バートランド・ラッセル著書「ラッセル放談録」への言及は興味深い。以下の一文は、 本の中の世界 (岩波新書)バートランド・ラッセルとの議論を経ての感想である。

科学と哲学は連続的につながっており、その間にはっきりした一線が引けないし、境界線をつくりたくないのである p.130

科学と哲学に限らず、文学や仕事または人生も同じだと思える。境界線をつくりたくない、という一文が触れた。
科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)評伝 アインシュタイン (岩波現代文庫) にある考え方と共通していて腑落ちできる。

最後に文章を分類した中のひとつ「物語」について書いておわりにしたい。物語はストーリーという言葉に置換可能。
これまでとくに考えず「物語」という言葉を使っていたが、物語の哲学 (岩波現代文庫) を読んで「人間は物語る動物」なのだと知った。文字、口承いずれも含む。
書籍によると、物語とは「出来事、コンテクスト、時系列」この3要件にしたがい、知覚経験を言語行為することを指す。それは事実のみならず虚構の領域にも及ぶ。
物を見たり音を聴いたり知った事柄について、我々の記憶はなんらかの興味関心に基づいて取捨選択をおこなう。そのあと、一定のコンテクストの中に再配置したり時系列に従って再配列する。このような過程を経てやっと、私たちはその世界や歴史について語り始めることができるのだ。
どうしてひとは物語るのだろう?
知覚体験を解釈的に捉え、語り、人は多様で複雑な経験を整序しながらその抽象的かつ混沌とした世界を理解しようとする。また、過去の経験、悲しみや喜びといった直接的体験を出来事として物語ることで、現実に対する理解を深めることができるようになるという効用にも触れていた。事実の真理を物語ることができる者は、現実との和解ができるのだという。

わたしが物語を好む理由は、事実に対する客観的解釈とその背景にある人の思いを時間軸で知れることにある。物語の、エントリ内容の、それから?が聞きたい。

私たちは文章を通して人や知らない世界を知り、あちこちを旅することができる。