スタイルを持つ

石井ゆかりさんによる闇鍋インタビューの内容が書籍になった。インタビューをお受けしたのは2014年の夏で、その後しばらく存在すら忘れていた。今年の春先に出版社から連絡をいただき、石井さんによる再執筆と編集が入り、書籍として発行される運びとなった。内容については触れないが、石井さんの目に映る自分は我ながら新鮮でちょっと独特な印象を受ける。

つい先日、発行元である出版社さんにお招きいただいて、石井さんを交えた刊行お祝いの会に参加する機会があった。
石井さんと編集担当のアライさんは自分の髪が短くなったことについて触れ、お互いの近況を交換し、ああでもないこうでもないとインタビュー当時の話に花を咲かせた。その中で石井さんは、主張しないけどなんだかスタイルがあるひとだナァと思った、と伝えてくださったのだった。
その時はふうん?と聞き流したが、寝る前にしみじみと嬉しさがこみ上げてきた。わたしは独自のスタイルを持つひとを羨望している。目がいってしまうし、話をすれば刺激を受けたり深く安心できる。もちろん石井さんが自分に対しておっしゃった「スタイルがある」とは別の文脈であることは理解している。それでも嬉しく感じた。

わたしがイメージするスタイルを持つひととは、一見わかりづらいが人を惹きつけるなにかが自然とにじみ出ている。パッと見わからんというのが特徴。目立つなにかではない。細部や深部にありそう。造形の美とは別の、真似ができない雰囲気にじんわりと惹きつけられる。持っていない自分のような人間からするとその深みやら存在自体がなんとも魅力的に映るのだ。あれは一体なんなのかしら。言語化しづらい。

そもそも「スタイル」とはなんなのか。
Wikipedia-スタイル によると、日本語では文体、様式、体型、型、種類、流行、品位、芸風などの意味を持つとある。広辞苑は以下のとおり。

  1. からだつき。姿。格好。「すらりとして―がいい」
  2. 服飾・頭髪などの型。「最新流行の―」「ヘア―」
  3. 建築・美術・音楽などの様式。型。「前衛的―のビル」「演奏―」
  4. 文章や文学作品の表現形式。特に、文体。「独自の―をもつ作家」
  5. 個人や集団などに固有の、考え方や行動のしかた。「ライフ―」

ほおう、品位か。芸風。
日常生活において好ましいものを吟味したり選んだりする品性や軸や美意識が感じ取れる。それは外見やファッションに限ったことではない。言葉や感情、姿勢、価値観、生き方、仕事、おそらくすべてについて言える。自分が納得のいくスタイルを持つには、好ましくないものは排除していく強さも必要なのだろう。
向田邦子さんだったかな?の文章にこんな一節があった。

自分が何をするか、その決定権を他人にあずけるのはやめたほうがいい

そして井上荒野さんのエッセイ「夢のなかの魚屋の地図」にある父上の言葉を想起させる。

人は何者かにならなければならない、
と父は何かにつけて言っていた。
お金を儲けたり、有名になったりする必要はなくて、
ただ自分の心の、いちばん大切な部分を使う
何かをして生きなければならない、と。

わたしが思う「スタイルを持つ」とはこういうことだ。
今の有りようがこれからの自分の型や品位を決める。

万年筆のこと

Montegrappaの万年筆を使い始めて5年が経った。書き味がいっそう滑らかでうれしい。時間が人のうえに積もっていく感じがする。

時候の便りの頃になるとこの万年筆を手に入れた時のことを思い出す。これに決めるまでの何ヶ月かの間、雑誌やインターネットで万年筆メーカーのコンセプトやペンの特性、デザインを日々リサーチしていた。鮮やかな色使いと洗練されたデザインが特徴的なDELTAの万年筆に憧れて、ほぼ Dolcevitaに決めていた。当時よく見ていたサイトはこちらです > PEN-HOUSE

それからひと月ほど経過した冬に、決心がついてようやく万年筆を扱う文具店に出向いたことを覚えている。手がかじかんで冷たかった。念願のDolcevitaを手に取って書いてみたところ、んー?なにかがちがう。うまくペンが進まない。なじまない。手が冷たいから?なんでか。
なんだかぎこちない、他のペンと書き比べてよいですか?お店の方に尋ねてみたところ、書き比べてもらわないとこわくて売れません、とこころよく応じてもらえた。かるく1時間はお店に居座って 6, 7本の万年筆を試させてもらった。そうしてさんざん迷ったすえに、ごめんなさい今日は決められないのでもう少し迷いたいとお願いをした。いつものことですね、という様相で「いいですよ。違和感がなく滑らかに書けるものを選んでください、高価なものだしね」そう気持ちよくおっしゃっていただいてホッとした。

万年筆のペン先は手作業で作られているそうだ。何本も書き比べて万年筆それぞれに個性があることを知った。書き手とペンの相性でこれほど書き味が変わるとは思っていなかった。
万年筆が自分の手と感覚にしっくり馴染むか。書いていてストレスがないか。ずっと持って書いていたいか。そうかー万年筆は道具だった。それまでわたしは万年筆をどこかファッションとして捉えていたのかもしれない。

今の万年筆を選ぶまでに意識したポイントは以下です。

  • ペンの重さ太さが好みで、自分の手にしっくりくるか
    • 好みの太さであっても重心が安定しないものがある。これは書いてみないとわからない
    • キャップを付けるとさらに重心が変わる
  • デザインは二の次、三の次
    • 細工やデザインが凝りすぎているペンは往々にして書くと違和感があった
  • 自分の筆圧とペン先の柔らかさの相関
    • ペンを寝かせ気味に書く人は硬めのペン先で大丈夫かも。そうでない人は柔らかめの方がよい。これも試し書きしなくちゃわかんない
    • ちなみにわたしはペンを立て気味で書くのでペン先のsweet point (紙とペン先のいちばんよい角度。業界用語でそう表現するらしい)を見つけるのに苦労した
  • 書いていて楽しいかなじむか

書いてみないとほんとうにわからない。不思議なのだけれど、書いていて癒されるという感覚が万年筆にはある。わたしはこのペンを手にしてそれを知った。購入しようと決めてから半年後のことだ。
そんなわけで何本も試し書きを重ねた結果、上記ポイントをすべてクリアしたMontegrappaのEmblemaに決めた。Dolcevitaとは太さもデザインも真逆で地味だ。ただただやさしい書き味に心が落ち着く。
もしも万年筆をはじめて購入してみようという方がいらっしゃれば、ゆっくりと時間をかけて、何度も試し書きされることをおすすめしたい。

字を書く機会がすっかり減り、たまに万年筆を持つと文字が軽快に踊ってこまる。
字を書いていると背筋が伸びる気がするし、他のものを見たり聞いたりしなくてよい自分だけの時間が過ぎる。
上のインクは緑と紺碧を混ぜたような PILOTの「月夜」。ちょうど夕暮れから闇に続く途中の色。形容しがたい深い色味が気に入っています。


発色に定評のある Dr.Jansenのインク「レオナルド・ダヴィンチ」はまだ使えていない。色展開はこちら> Dr.Jansen ボトルインク

梅雨だる

雨音を聞きながら本を片手にごろごろしています。
「梅雨だる」という言葉があるのですね。今日知りました。検索してみると、なるほど症状や対策について多くの記事があります。
そういえば少し前に頭が重い〜ということが数日続きました。眼鏡の度が合っていないのだと思っていたら徐々に頭痛がひどくなって夜に体温を測ると発熱していてびっくり。その翌日は何事もなかったかのように元気が戻り、知恵熱かーとやり過ごしたのでした。あれはきっと梅雨だるだ。

今週、東京に向かう新幹線の車中がずいぶんと寒く、降りると梅雨特有の蒸し蒸しとした雨。オフィス室内は冷房の効きがよく、半袖シャツしか持ち合わせていなかったため1日震えていました。晴れ間が見えたと思えば次の日は強い雨。はあ、めまぐるしい。加えて睡眠不足でもありました。自業自得です。疲れからか昨日はなんとなくぼうっとした気分で、夜になるとさすがに元気をなくしてしまいました。案の定 熱があった。
よくも悪くも自分の体調に鈍感で、たいてい食欲旺盛で、よほど強い症状がでないと不調に気づきません。気圧の影響も感じたことがないし。

日がな一日ごろごろとしていたのをよいことに、やらないことを決めました。自分にとって好ましくないものは省いていけばよい。やることを決めるよりやらないことを実行するほうが容易いです。

  • むだな焦り
    • 余計なことに気を揉んだりハラハラしたり勝負とか。自分の人生にとって無意味
  • 自分の時間や大切な経験を別のなにかで不意にしない
    • だって明日死ぬかもしれない。気が進まない物事や場所や、外から入ってくる疲弊する情報やマニュアル的な呪縛。効率重視なノウハウはいらない
  • 人生に効率を求めない
    • 自分が求めている人生に解はなく、非効率でわかりづらいものの中に向き合っていくことが隠れていそうな気がする

のんびり過ごしているとまた元気が戻ります。経験則としてそのことがわかってから、自然とでてくるものにまかせて無理になにかを思ったり試すことはしなくなりました。梅雨のせいだと思えばなんだか元気がでてきます。

いつも機嫌よくいたいなぁと思うのですが生きているとなかなかそうもいきません。機嫌よく前を向いているときはものがよく見える気がするし、なにより余計なことをぐるぐる考えずに済みます。自分が機嫌よくいたいのもそうだけど、客観的にみていて低め安定で機嫌のよさそうな人は心が安らぎます。その人だっていろいろあるはず。きっと強い人なのでしょう。悲しみのわかる機嫌のよい人になりたい。

雨はきらいじゃないんだけどなぁ。梅雨明けを待っています。

議論を諦めない

すこし前にとあるイベントに参加させてもらったときのことを書きます。

こじんまりとした座談会が企画されていた。6~7人が集って仕事観や業務について話をするといったテーマで、そこで聞いたまつもとりーさんの「議論を諦めない」この一言がわたしの心を掴んで離さない。伝えることを諦めない、といえるのかもしれない。機密情報に抵触しない範囲でどのようなものであったかをお話したい。

ある方がまつもとりーさんに向けて質問をされた。「あなたがやっている学術研究を企業で実践に導入するという取り組みは、外から見えづらく、貢献度の判断が難しいのではないか。どういう働きかけをされているのだろうか」
質問に対する回答はこうだった。メモ書きなので意訳してあり、文脈をすこし変更しています。ご容赦ください。

  • 周りのメンバーに常に相談をして答えや評価を出している(出してもらっている)ことが多い
  • 自分の役割は、小手先の技術ではなく新規性のある価値を考え、作り込み、それを作って支えられる体制や文化、環境、組織すべてをつくることだと思っている
  • そのためにはいろんなポジションのひとと話をする。「新しい価値やよいものを提供したい」という想いは、ポジションが異なっても同じだ。アプローチが異なるだけ
  • 想いや目的が同じなのだから、それぞれの立場でどれだけ議論できるかを重視している。自分だけの利益を押し付けるような体制にはなってないしそうはさせない。バランスがだいじだ
  • 自分はこれまでの経験から、多角的な視点でものごとを見て考える訓練をしてきた。いまもそういう研究のしかたを重視している。まだまだ未熟ではあるがこれからの姿勢もそうありたい
  • 新規性のあるイケている価値をつくるために、技術を高め、議論を諦めない。その姿勢が大切だと信じている

問いかけに対し、まつもとりーさんは時間をかけてそれはとても丁寧に説明をされていた。いま思うと、わたしは言葉だけじゃなく、言葉を尽くして説明しようとされるその姿勢に胸を打たれたのだ。

以前よりid:matsumoto_rさんのブログ 人間とウェブの未来を拝読したり y_uukiさんからお人柄について伝え聞いていたことで、まつもとりーさんがこれまでどんな経験を積まれてきたかについて少し知り得ていた。壁にぶち当たる度に試行錯誤し考え悩み、それでも困難から逃げることをせずに努力してこられたのだなぁ。そんな印象を抱いていた。丁寧に言葉を使い軽薄な表現をしない方だなと感じていた。
またこちらのエントリ 研究者と技術者の狭間で感じた事 - 情熱が自分を変えるで、おうちで研究を進めることについて「ああ...1人だなぁと思っていました」と書かれていた。孤独であっても灰色の雲の上の光を見据えて一歩一歩進んでこられたのだろう。エントリの終盤に『自分が研究・開発を継続的に行う事ができたもう一つの大きな要因として「人の言葉」があります』との一節がある。
別の場所で拝見したまつもとりーさんの発表資料には「口だけにはなりたくない」との記載があった。
そうか、この方は自分の想いや考えを熱心に諦めず伝え続けてきたのだなぁ。そこから得たフィードバックを謙虚に受け入れ、さらに洗練させて、人との関係性の中でご自身や技術を研鑽されてきたのだろうなぁと想像できた。
「議論を諦めない」その言葉の裏側にある意思にわたしは心を掴まれたのだなー。

思うことがあっても伝えることを諦めがちだった。うまくちゃんと伝えられないから..と言い訳をしていた。自信がないのも理由のひとつだ。あとになって、自分を伝えられない不甲斐なさで、悲しくなったりやりきれない思いをしてきた。苦虫を噛むような気持ちが交じることもある。表面的によしなに楽にスピーディ(自分はぜんぜんスピード感がないけど)に、その場しのぎで過ごしてきたことが情けなく恥ずかしい。
心が揺れるとき雨に救われることだってあったはず。悔しさや悲しみのなかにいるときに見た景色は鮮明なものではなかった。支えてくれた言葉はなんだったろうか。毎日が美しくなくても晴れやかじゃなくてもよいのだと思う。

響く言葉とは表面的に耳障りのよいことばではなく思想や美学なのかもしれない。今までに見てきた景色、考えてきたこと、その深さや広さ、辛かったこと、感じたこと、喜び、悲しみ、苦労、劣等感すべてをひっくるめた生き方が、表現や声色を経由して相手に伝わる。

たどたどしくても疎まれても恥ずかしくても不器用でも時間がかかってもしんどくても、いま自分のなかにある考えや想いを言葉にして伝えるしかないのだ。じゃないとずっと同じ自分で存在することになってしまう。

伝えることを諦めない。そんなシンプルなことに気づかされてほっとした。

なにに注目して心が動くのか

自分は他者のどんな点に注目したり心が動くのかについて書いてみたい。

空気

以前ふらっと立ち寄った個展でカメラマンの方から聞いたこぼれ話を思い出した。
記念写真として撮影する集合写真や家族写真を撮る際は、はいチーズ!を宣言して 0.5秒待ってからシャッターを切ることにしているのだそうだ。外向きに作った意識的な表情から緊張が緩むその一瞬に、そのひとらしい自然なよい表情が見れるのだとおっしゃっていた。0.5秒以上待つともう目線が別の場所に移ってしまう。だから0.3~0.5秒の間が勝負なのだと。なるほどこれがプロの視点か。

言われてみれば自分も他者の「無自覚でいるとき」に目を向けるなと思った。なにかの制限なしに、そのひとが自分の時間を好きに過ごしているときというのかな。
散歩中に立ち寄った珈琲店で一人客がいたら相手に気づかれないようにこっそりと眺めてみる。疲れていそう、ねむそう、楽しそう、勉強中かな、このひとの時間の流れはゆっくりそうだ、など。くつろいで読書に耽り始められたりしたら最高。横顔や後ろ姿からリラックスしている様子を感じ取り、こちらまで鎧をぬいで自分の居場所を見つけたような気分になる。
そのひとそれぞれが纏う空気のようなものは、好きな時間の過ごし方や様子を知ることでおぼろげに感覚的に受け取っている気がする。

そのひと自身

人間的な魅力や深み--感受性や思考方法や経験の蓄積や道徳性や価値観、なにに情熱を持っているか、なにが好きでどんなことが嫌でなにに安心をおぼえるかなど。ただ、こういったひとの味わいがわかるには時間がかかる。
会ってみて何度も話をしてみないといけないかもしれない。思いもよらない不意な出来事からその人となりが感じとれることもある。饒舌に話をしていたひとが不意に黙り込んでしまった時とか。手を振って別れた友人がもう一度振り返ってくれた、みたいなこととか。言葉に頼らないノンバーバルな理解だってある。

こんなことを書きながら錯誤するようだが、ひとをすぐに判断できないと知っていた方がよい。ひとを見たりわかったりすることは効率化できない。

ビジョン、展望

ものごとが動きだすとき、その背景や想いは強い力を持つ。
そのひとの大切にしている軸ややりたいことはなにか。知れるとうれしい。

在りかた

そのむかしニーチェは「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」と書いた。勝ち続けていたら負けのことを学べない、とはよく言ったものだ。
Mark Twainの言葉に “Everyone is a moon, and has a dark side which he never shows to anybody.”とある。失敗や劣等感などネガティブな経験や感情について静かに落ち着いて考え、そして次の行動に移せるひとがほんとうの強さを持ったひとかもしれない。
映画「ショーシャンクの空に」でAndyが脱獄できた理由について、Andyが大学時代に専攻していた地質学の原理になぞらえ 'Pressure and Time.'を理解していたからだとRedは言った。
これまでの想いを大切に心に留め、一時的に困難なことがあっても長い時間でものごとを捉え、自分を信じて突き進むことができるひとは強い。
だれかの尺度で自分の幸福をはかってはいけない。

自分のこと

他者を通して自分を知ることは多い。つねづね自分を語れないと感じていて、いったいわたしはなにを考えているのか?とぐるぐるしたのでこのエントリをあげた。考えを文章にすることは難しい。自分を語れるひとを尊敬する。
時間や経験が自分の周りに降り積もることでようやく自身の形状を理解しつつある。もっと深くものごとやひとや自分と向き合えるようになりたい。

2016年

あけましておめでとうございます。

金沢で穏やかに新年を迎えることができました。雪はなく暖かな冬です。
手製のおせち(食べたいメニューを厳選した)とオードブルを囲んで、Pat Metheny GroupをBGMにのんびりと過ごしています。自由です。

仕事面について、これまで長らくほぼ一人で現場をやりくりさせてもらってきました。ありがたいことに昨春メンバーが増え、心身ともに余裕ができたことで、すこし自分の目線が変わったように思います。とはいえまだまだ周りには迷惑をかけていて助けてもらい通し。大切だと思う人や事に恥じないよう、引き続き精進します。

昨年は春先まで脳内が仕事と不安でいっぱいで、ほぼ自分の生活や時間に気を回すことができませんでした。繁忙がすこし落ち着いた頃かな、ふと自分の感受性が失われてしまったのではないかと愕然とすることがありました。「なんのために生きているか」を考えて途方に暮れてしまった。いや、ことあるごとに脳裏に浮かぶけれど「こたえを求めないよう注意を払いながら折に触れて考えている気がする。しかしその度にすごく虚無な気持ちになって、それでいつも考えることをやめてしまう」が正しいかな。
梅雨あたりは、これからどうしよう&わたしの感受性やばいとぐるぐるしていたように思います。波照間島への一人旅を具体的に計画し始めたのもこの時期でした。
日常からすこし離れ、波照間島に出向いたことは実り多き体験となりました。このことはまた別のエントリに書かなくちゃ。
一人になったことで、自分は一人じゃないのだなあと当たり前だけれど感じることができました。海しかない場所で、予想以上にいろいろな収穫を得ることができました。「形」として持ち帰れたものは一つもありません。大事なことは目に見えない、とサン=テグジュペリが書いているとおり。

毎日は常に流れていき、さまざまな経験と忘却を重ねながら、それを生きていることだと思って過ごしています。なんのために生きているか。このような思考の散歩をはじめると、どんどん落ち込んで、すべてのことが観念的で意味を見出すこと自体が無意味じゃないかと思えてきます。なにかのために生きていてもいなくてもどちらでも、生きていればよい。そんな心持ちで今は生きています。

数年がかりでこの学習に身を投じてみようと思える見通しをこのひと月でやっとfixすることができました。
今年は学びに気持ちを傾けたいと思います。身近なみんなの健康と食べること(生きがい)はもちろん。それから、本も読みたい。今までと同様にできるだけ喧騒から離れた場所に自分を置いていたいです。自分が思うことは言葉にしてちゃんと伝えたい。人の意見や評価は素直に受け取る。書き出すといろいろと出てくるな。歳を重ねても「こうありたい」がたくさん出てくるのは良しですね。時間が人に降り積もっている感じがする。
ものごとが現実化する過程での心がけはずっと意識してきました。最近はますますその気持ちが強まっています。以下に書き留めて、新しい年のエントリとします。

押し寄せる感情の波をやさしく受け入れ、ひとつひとつの出来事に心を動かしても奪われることはなく

つらぬく強い意志などとかいうものはあまり考えないようにして できる限りのやさしい視線で遠くの方に静かな見通しを持ち続けること

本年もどうぞよろしくおねがいいたします。

イイダ傘店の雨傘がとどいたよ

3月の京都展示会で注文した雨傘が届きました。梅雨が明けたところでしばらく出番なさそうだけどな。待つ時間も楽しみのひとつです。
植物や幾何学模様をデフォルメしたテキスタイルデザインと色の妙が毎回とても素敵。人の手で時間をかけて作られたものであることが伝わってきます。丁寧に作られたものを大切に使いたい。
今回雨傘を購入するにあたって、普段よく着る洋服の色(白・紺・グレー・茶)と相性がよく また灰色の雨空に映えそうな色合いを考えて、明るめのからし色を選びました。すごく迷った。

この質感。細かな箇所までしっかり作られていてぐっとくる。

持ち手は樫の木を選びました。手馴染みがよく持ちやすい。タッセルに名前を入れてもらいました。わかる?

雨雲の下で映えるかなー映えるといいなー。

日傘

3年前から愛用している日傘。こちらも手元に届くまで4ヶ月ほど待ちました。木製のねこの持ち手。

テキスタイルは魚の骨の刺繍模様です。ベースカラーはグレー。渋い色味に惚れた。

そばに置いて、傷んだら修理を重ねながら大切に長く使い続けたい。